山本悦子さんの『わたしに続く道』を読んだ。
ケニア人のお父さんと日本人のお母さんを持つリイマは、小学5年生。物語は、お母さんが日本人の男性と再婚する場面からはじまる。
リイマは日本で生まれ育ち、ことわざ検定や漢字検定だって取得している。だけど、足が速いのを「黒人だから」と決めつけられ「ずるい」と言われる。日本人のお父さんとお母さんと一緒に歩けば、奇妙な目で見られる。
自分は日本人なのに「外国人」だと言われる日々。リイマのアイデンティティが揺らいでいく。そんなある日、さほど仲良くもないおばあちゃん(再婚したお父さんのお母さん)から、ふたりでケニアに行こうと誘われる。
物語の中には、様々な偏見、思い込みが描かれている。
黒人はもれなく全員足が速い。
差別されている同級生を助けてあげた自分はえらい。
おばあちゃんは外国人の連れ子がいる結婚に反対している。
見た目が外国人だから日本語が話せないだろう。
海外旅行をしているから贅沢に暮らしているに違いない。
子どもを置いてケニアに帰ったお父さんに、自分は愛されていない。
読み進むうちに、それらが気持ちよく裏切られていく。偏見にまみれていた自分に落ちこまずに済むのは、山本さんのまなざしが優しいから。
結局、目に見えていることはほんの一部で、全体を見ようと思えば「知る」以外にはないのだなあ、と思う。それがかなわなければせめて想像する。相手と話すこと、自分の価値基準を知り偏りがあれば修正すること。その証拠に、リイマと仲良しのクラスメイトたちはリイマのことを黒人だとか外国人だとかいう目で見ない。ただ「リイマ」としてだけ見る。彼女のことを知っていて、心を通わせているからだ。
最後にリイマがたどり着いた「いちばん当たり前で、単純で、そして、いちばん大切なこと」、それはリイマだけじゃなく、わたしたちみんなが知っておくべきこと。
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